自由復興と独立宣言の記念日
特集
(ウランバートル市、2025年12月29日、国営モンツァメ通信社)1911年の当日、モンゴル人は清朝の支配を打倒し、独立を宣言し、モンゴル国を再建した。
当日、モンゴルは世界で独立を宣言し、ジャブザンダンバ活仏8世を国家元首に推戴し、初代五省を設置して閣僚を任命した。すなわち今年、清朝の支配から離脱した「自由復興および独立宣言」の114周年を迎える。
モンゴル国会は2007年に「祝日および記念日に関する法律」を改正し、「自由復興と独立宣言の日」を記念日に制定した。そして同年の12月29日に初めて祝った。
歴史を振り返ると、1206年にチンギス・ハーンが建国したモンゴル帝国の最後の君主であるリグデン・ハーンが1634年に死去し、1636年に南モンゴル、1691年にハルハ・モンゴルが清の支配下に入った。1757年に清に抗したホトゴイドのチングンジャブとオイラトのアマルサナーの蜂起が鎮圧され、モンゴル全域が清の統治下に置かれた。これにより、モンゴルは独自の国家を失い、内外に分断され、外モンゴルが北京の理藩院が管轄する体制となり、他国に支配される200年以上の時代が始まった。
1727年にモンゴルとロシアの国境が画定され、ロシア・モンゴル関係の全事項が清朝とロシア帝国の外交枠組みで処理されるようになった。すなわち、外モンゴルが清朝の辺境地域と位置付けられた。
清朝は19世紀後半までモンゴルを対外的に隔離する政策を維持してきたが、1860年、1862年、1869年、1881年の清露条約によりロシアの影響力が拡大した。一方で清朝の統治力が弱まり、外モンゴルの植民地化を進める「新政」を開始した。これが長年抑圧されてきたモンゴル人の反発を強め、1911年の解放革命の前提条件を形成したと歴史家らが指摘する。新政は中国人の移住や農耕、漢蒙間の通婚、地名や公用語での漢語使用を容認した。また、清朝式の苛酷な刑罰も導入し、領土掌握と資源収奪、同化政策を進めた。このため、モンゴル人は清朝の政策に反発し、支配からの離脱を模索するようになった。ハルハ仏教界の最高指導者であるジャブザンダンバ活仏8世は、1895年と1900年に清からの独立支援を求めてロシア皇帝に書簡と使節を送った。1900年代初頭に内モンゴルでトグトフ親王の指導による蜂起が発生し、1900年にウリアスタイで約2000人のモンゴル兵が反乱した。更に1906年と1910年に、イフ・フレーで中国商人に抗議する民衆と僧侶の運動が起きた。
1909~1910年から外モンゴルの諸侯は「新政」に反対して正式に結集し、ジャブザンダンバ活仏と協議した。清朝政権の崩壊が近いとの認識の下、この機を捉えて独立を宣言し、国家を樹立すべきとの見解で一致した。この意向は1911年の夏のナーダム祭で更に確認された。ハルハの諸侯は祭りを口実に秘密裏に会合を重ね、ジャブザンダンバ活仏およびハルハ四旗のハンの署名入りの独立支援を求める書簡をロシア帝国に再び送ることを決定した。1911年7月、ジャブザンダンバ活仏代表のダ・ラマ・ツェレンチメド氏、ハルハの諸侯代表のチン・ワン・ハンドドルジ氏、内モンゴル代表のハイサン氏が同書簡をロシアに届けた。
ロシア帝国から直接的な支援は得られなかったものの、モンゴル人は自力で独立を復興する決意を固めた。その後、1911年10月にトゥシェート・ハンG.チャグダルジャブが率いる臨時政府を樹立し、独立宣言、ジャブザンダンバ活仏の即位準備、兵力・武器の整備、資金調達などの活動を開始した。また、12月初旬にフレーに駐在する清朝のサンドー総督を追放し、中国軍の武器を押収した。
臨時政府は1911年12月29日、モンゴルの独立を宣言し、ジャブザンダンバ活仏を国王に擁立し、初代五省設置や国璽・国章・国旗の制定などの準備から実施までを担った。
清朝を倒して成立した中国が独立を宣言するわずか3日前の1911年12月29日、モンゴル人はこれに先んじて独立を宣言し、ジャブザンダンバ活仏8世を、政教一致の下で統治し、無制限の権限を持つ皇帝に推戴した。







Ulaanbaatar