モンゴル国独立と自由回復の歴史

政治
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2023-12-29 14:53:25

モンゴル人が祖国の自由を回復し、20世紀のモンゴルの新たな歴史が始まったのが19111229日である。112年前のモンゴル人は、国家存続の危機に瀕していた祖国の独立を宣言した命運を握ることができた

    つまり、チンギス・ハーンが築き上げた大帝国が衰退し、モンゴルが世界地図から消え去る悲しい歴史もあったが、僅か100年前のことである。あのような困難な時代に果敢に立ち向かい、独立を宣言し、新しいモンゴルの歴史を築いた祖先の誇らしい勇気をモンゴル人が永遠に思い出し、祝福する日が1229日である


    現在のモンゴル国が、世界で独立を宣言し、承認された歴史が最近のことである。1634年にモンゴル黄金貴族の最後の王であるリグデン・ハーンが亡くなって以来、1636 ら、1691年にハルハ・モンゴルが相次ぎ満州に征服され、200年以上支配された

    他国に支配され、統一国家の権限を失ったモンゴル人のことを北京における満州の外モンゴル国務省が特別に扱っていた。当時は、既に人類の発展と技術進歩の新時代が始まり、西洋文明が世界に普及していた。その意味で、20世紀初頭、全世界がヨーロッパの植民地支配下に置かれた一方、外モンゴルはまだ中国王朝の管轄下にあった




    満州は外モンゴルを自治 1 9 半まで外界から孤立させていたが、時間の経過と共にその影響力が弱まり、モンゴルではロシアの影響が増大してきた。その頃、満州は政権力維持のため、モンゴルで「新政府 めたことが外国の抑圧を排除したいモンゴル人の願望を刺激した。その理由は 策が、モンゴルに中国人の大量定住、農業従事、国人との結婚禁止という厳格な規則の廃止、中国語使用禁止の撤廃、満州でのみ行われていた残酷な拷問を実行していたと等であり、モンゴル人の激怒を引き起こした。従い、モンゴル領土の侵略、天然資源の略奪、国民の中国化と子孫絶滅危機を危惧したモンゴル人は、満州から分離し、自由を回復する方法を模索し始めた。満州の新政府政策を反対し、国家立のため戦い始め、指導したのが外モンゴルの数人の貴族及びハルハ族の活仏ジャブザンダンバ8世であった


    自由回復と国家独立に向け団結した外モンゴルの貴族らは、190910年にかけ、活仏ジャブザンダ 8 話し合っていた。その前の1895年と1900年には、活仏 8 世がロシア帝国宛に、満州からの分離支援を求めた書簡と使者を送っていた歴史がある。活仏ジャブザンダンバ8世は、2歳の頃、外モンゴルの宗教指導者としてジャブザンダン 8 となり、1874年、5歳の時にイフ・フレー(大都の意)にチベットから来た。活仏ジャブザンダンバ8世は幼い頃からモンゴルを愛し育ち、モンゴルの政治や将来のために最善を尽くしたことが歴史に記録されている

    ハルハ族の貴族らは以前も国家独立について話し合い、1911年の夏、活仏ジャブザンダンバ8世と再び、密かに会談し、ロシア帝国に自由回復と国家独立への援助を求める書簡を送った。ロシアがモンゴルの独立を支援すると全員が確信し、モンゴル全土にその名を広めた活仏ジャブザンダンバ8世の即位を決定した。活仏 8 世は、当時のモンゴルの主要な知的指導者であり、モンゴルの貴族ら及び僧侶らを公平に導き、モンゴル人民を団結させる最も最適な人物であった

    貴族らの中では、チンギス・ハーン黄金貴族の子孫であるダシニャム・トゥシェート・ハンが国家を率いる可能性が最も高いとされていたが、全てのモンゴル人が、生き神のように崇拝していた活仏ジャブザンダンバ8世の方が、国民の意思団結に最も影響力のある人として認めていた


    チンギス・ハーンの黄金貴族はハルハ地域の4県を統治していたが、当時は全モンゴル人が認める人を即位することが最良の方法であった

    200年以上にわたり、他国の支配下に置かれた中、仏教がモンゴル人に深い影響を与え、革命への大きな推進力となった。つまり、モンゴルでは仏教の教義が国家法と同等水準に達し、宗教指導者の即位を受け入れられない人はいなかったと言える

    19117月、活仏ジャブザンダンバ8世が率いるツェレンチメド・ダー・ラマ、ハルハ族代表のハンドドルジ・ チン・ワン、南モンゴル代表のハイサン・グンは、革命への支持を求め、ハルハ族四ハンの署名付き書簡を携え、ロシアへ向かった。「国際法では、小国は小国を尊重し、独立国は小国を支援する伝統がある」と記載され、ロシアに保護と援助を求めた。これは、当時のモンゴル貴族らの国際関係に対する知識の豊富さを証明するものである。また、南部でも中国の独立を目指す反乱が広がり、満州政権がやがて滅その時期を見据え、革命を起こすのに適切な時を形成した。これも、当時の貴族らが国際情勢を注意深く観察し、自国の将来を整然と計画出来る指導者であった証拠となる



  

  このように、ハルハの貴族らは国家独立のために懸命に努力し、ロシアの支援を得るために1911716日に出発し、82日にサンクトペテルブルク市に到着した。歴史によれば、モンゴルの満州からの分離問題を巡りロシア閣僚の間で意見が一致しなかったことが記されている一部は支持したが、中国や満州との友好関係を維持しながら地下資源や家畜原料が豊富なモンゴルを影響下に置き続ける政策を実行したいと考える一部の閣僚もいた。そのため、ロシアがモンゴルを支援する決定は困難なものであった

     立を ため、自力で行使することを決めた。191110月、チャグダルジャブ・トゥシェート・ハンの率いる臨時政府が「フレーの一時担当総局」の名で設立された。臨 言、活仏ジャブザンダンバ8世のボグド・ハーン即位を担当する。また、軍隊の動員、武器の準備、資金調達も担当した


    1909年からイフ・フレーに住み、満州政策実施に関わっていたサンド満州首相は、モンゴル貴族らや僧侶らの圧力により、1911124日にモンゴルから追放された。このように、モンゴル全土で外国抑圧からの解放と国家独立革命が続き、19111229日に「フレーの一時担当総局」すなわち臨時政府が、モンゴル国家の独立を宣言し、活仏ジャブザンダンバ8世をモンゴルの宗教と国家指導者とし、ボグド・ハーン政権を築いた。モンゴルの独立宣言が、中民国家が満州を打倒し、独立を宣言する僅か3ヶ日前に行われたのは、偶然ではなかった。満州政権が崩壊され、中民国家が満州抑圧から解放され次第、満州 の支配下にあったモンゴルを、その影響下に置くため、モンゴルより前に独立宣言をすることが常に重要であった

    独立したボグド・ハーン政権のモンゴルは5つの省からな新政府を樹立し、当初から革命に尽力したツェレンチメド・ダー・ラムが内務大臣に、ハンドドルジ・チン・ワンが外務大臣に、チャグダルジャブ・トゥシェート・ワンが大蔵大臣に、ゴンボスレン・ダライ・ワンが防衛大臣に、ナムスライ・チン・ワンが法務大臣に任命された

    また、独立宣言に関する書簡は イツ 日本、デンマーク、オランダ、オーストリア、ハンガリーに送られたのは、当時のモンゴル人政治家らが、国家独立を世界に宣言することにより、国際的に承認され、多大な努力で得た独立が維持され続ける条件ができることを事前に知っていたことが伺える

    20世紀初頭、モンゴル人は国家独立と自由回復を達成し、モンゴルの真の歴史が始まった。独立宣言以来、ちょうど100年後の20111229日が「国家独立と自由回復記念日」と定められ、祝日となった

    1229日は、モンゴル人が祖国の独立と自由を回復した誇り高い歴史的な記念日である