普通の外交官から国家元首への道

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2024-10-27 13:27:01

(ウランバートル市、2024年10月27日、国営モンツァメ通信社)カザフスタンの第2代大統領であるカシムジョマルト・トカエフ氏は、1953年5月に当時のアルマアタ(現在のアルマトイ)で生まれた。トカエフ大統領の父親のケメル・トカエヴィチ・トカエフ氏(1923~1986年)は、スターリングラード攻防戦およびキエフ市の戦いに参加した退役軍人であり、戦後はカザフスタン文学における冒険探偵ジャンルの基礎を築き、ソビエト全土で有名な作家となった。


ケメル・トカエヴィチ氏の実弟は、大祖国戦争の前線で戦い、命を落とした。その弟を追悼し、将来の大統領に「カシム」という名を付けた。カシムはアラビア語で「家族を養う者」を意味し、母親は息子に「ジョマルト」という名を選んだ。ジョマルトは「気前が良い、寛大な」を意味する。


トカエフ大統領の母親のトゥラル・シャバルバエワ氏(1931~2000年)は、アルマトイ市の外国語師範大学で教師をしていた。作家である父親と外国語教師である母親の影響により、カシムージョマルトは中学校時代から外国語の学習に熱中した。最初にフランス語を深く学んだ後、他の外国語にも興味を持つようになった。現在、トカエフ氏はカザフ語、ロシア語、フランス語、英語、中国語が話せる。また、本を読むことが非常に好きで、特に回顧録や政治関連の書籍に強い関心を持ち続けている。学生時代から新聞や雑誌を読んできた。


カザフ・ソビエト社会主義共和国で最も優れた学校の一つとされていたアルマトイ市の第25番学校を優秀な成績で卒業した。トカエフ氏について、同級生らは「彼は常に重要なことに集中する力があり、他人に対して高慢な態度を取らず、控えめな子供だった」と振り返っている。カシム氏は外国語を学びながら、学校新聞「歴史の真実」にも寄稿し、子供には難しいと思われるテーマについて真剣な記事を書いていた。


政治学博士であるトカエフ氏は、国際関係に関する約10冊の著書を執筆しており、「克服」という外交に関する最初の著書は2003年に出版された。


 トカエフ氏は子供の頃からスポーツに親しんでおり、卓球で学校のチャンピオンになった。学生時代にはスポーツの準マスターの称号を取得している。政治家となった後は、カザフスタン卓球連盟を13年間指導した。現在も体形を維持するため、卓球を続けている。


慎重で細やかな性格のトカエフ氏は、中国語と英語をしっかりと習得した。1970年、ソビエト連邦外務省附属のモスクワ国際関係大学に入学し、5年後卒業した。その後すぐにソビエト連邦外務省に配属され、外交官としての長いキャリアが始まった。

同氏はまずシンガポールにあるソビエト連邦大使館で勤務し(1975-1979年)、その後、外務省の中央事務局に転任した。次に、北京大学の外国語学部で研修を受けた。さらに、1980年代の中頃からソビエト連邦の崩壊まで、北京のソビエト大使館で勤務した(1985-1991年)。

ちょうどこの時期に、リー・クアンユー・シンガポールの経済の奇跡を築き上げ、国を「第三世界」の発展途上国から先進国の仲間入りさせた。また、鄧小平は「中国の特色ある社会主義」の基礎を築き、改革を積極的に進めていた。

ソビエト連邦が崩壊した後に設立された新しく若いカザフスタン共和国では、トカエフ氏の知識と経験が非常に必要とされていた。そのため、ナザルバエフ大統領の招待を受けて故郷に帰国し、1992年に外務副大臣に任命され、アジアの国々や国際機関との関係を担当することになった。


シンガポールの元首相リー・クアンユーの手法や改革政策は、カザフスタンの急速な発展の基盤を築いたナザルバエフ大統領の理念に強い影響を与えたと言われている。この点において、シンガポールでのトカエフ氏の役割は少なからず重要であったと考えられている。

カザフスタンでは1990年代初頭、外交機関の構造がまだ整備されておらず、国際関係に関する専門家はほとんどいなかった。カザフ国立大学では国際関係学部が新たに設立されていたところであった。トカエフ氏は、外交機関を立ち上げるために職員に高い専門性を求めており、外務省を実質的に自らの手で「育ててきた」と言っても過言ではない。


国内のさまざまな論争や対立には常に関与せず、外交機関の確立に専念して働いていたトカエフ氏は、1997年に発表した「独立の旗の下で」という記事の中で、カザフスタンの外交政策の原則を明確にし、これまでの歩みを振り返った。


カザフスタンは1990年代初頭に多角的でバランスの取れた外交政策を推進し、隣国ロシアだけでなく、アメリカ、欧州連合、中国との協力を進め始めた。この独立したカザフスタンの外交政策を形作り、外交機関の設立において重要な役割を果たしたのがトカエフ氏である。同氏の努力は、将来のパートナーにカザフスタンへの関心を持たせ、信頼できるパートナー国というイメージを築くことに集中していた。トカエフ氏は2年後に外務大臣に任命された。


トカエフ氏は1999年春に政府の副首相に任命され、その約半年後に首相に就任した。この時期、アジア大陸では金融危機が発生し、ロシアはデフォルトに陥りた。それに伴い、カザフスタンの経済も危機に見舞われ、非常に不安定な状況にあった。しかし、年末には危機がほぼ収束し、経済成長の兆しが見え始め、トンネルの先に光が見え始めた。

トカエフ氏は首相として2年間勤務した後、自身の希望により外務大臣の職に就くことになった。2007年1月、憲法の改正が求められ、上院議長に選出された。


まさにこの時期、2008年から2009年にかけてナザルバエフ大統領の目指した欧州安全保障協力機構(OSCE)の友好的な関係を構築するという目標が達成された。中央アジアやアラブ諸国では「色の革命」が相次いで発生していた中で、カザフスタンは欧州安全保障協力機構などの多国間協力の枠組みに積極的に参加し、地位を強化していきた。トカエフ氏は2008年に欧州安全保障協力機構の議会議員会議の副議長に選出され、2010年にはアスタナでこの組織の首脳会議を開催した。


トカエフ氏は外交官および公務員として、下から上までのすべての段階を経験してきた人物であり、同氏の主な強みは他者と円滑にコミュニケーションを取り、合意に達する能力である。この外交的な才能は、国際的にも高く評価されている。2011年から2013年にかけて、トカエフ氏はカザフスタンを国際舞台で誇り高く代表して活動した。



同氏はパン・ギムン国連事務総長の副事務総長、ジュネーブ市にある国連本部の事務局長、そしてジュネーブ市軍縮会議(CD)の事務局長などの重要なポジションを歴任した。カザフスタンの初代大統領ナザルバエフ氏は、「トカエフ氏をこれらの職に任命したことは、彼の外交官としての能力を認めるだけでなく、カザフスタンに対する信頼の表れでもある」と述べていた。


大使館の二等書記官から国連の副事務総長まで昇進することは、外交の教科書に記載されるほどの珍しい例である。

トカエフ氏、カザフスタンの第2代の国家元首

2013年に帰国したトカエフ氏は、再び上院の議長に任命された。この時期、旧ソ連の影響下にあった国々の間の関係はあまり良好ではなく、中東では暴力が激化し、「イスラム国」の活動が活発化していた。これらはカザフスタンの国家安全保障に対する脅威となっていた。このような困難な時期に、ナザルバエフ大統領にとって、信頼できる支持者であり、謙虚なリーダー、言葉ではなく行動で国に貢献できる人物が必要であった。トカエフ氏はその期待に応えることができた。

そして、6年後、ヌルスルタン・ナザルバエフ・カザフスタンの初代大統領は権限を譲渡し、トカエフ氏を自身の後継者に指名した。


「カザフスタンが独立を宣言して以来、トカエフ氏は私と共に働いてきた。私は彼をよく知っている。彼は正直で責任感が強く、与えられた任務を確実に遂行する人物である。同氏の関与のもと、すべての発展計画を策定し、承認してきた。カザフスタンを率いる任務を信頼して委ねられるのはトカエフ氏であると、私は確信している」と初代大統領が述べた。


2019年3月20日、トカエフ氏は宣誓し、国家の指導者としての任務を開始した。同氏は政権移譲プロセスをより透明にするために、予定よりも早く大統領選挙を実施し、70.96%の票を獲得して圧倒的な勝利を収めた。

トカエフ氏が大統領に就任すると、最初にロシアを訪問し、プーチン大統領と会談した。その際、トカエフ氏は「ロシアは戦略的に信頼できるパートナーであり、親族よりも近い隣国である」と明言した。

カザフスタンの第二代大統領であるトカエフ氏は、多面的で実利的な外交政策を推進し、ロシアのみならず、中国、米国、中央アジア諸国、欧州連合、中東諸国などの「戦略的パートナー国」との協力を強化する方針を実施している。また、カザフスタンは独立国家共同体、ユーラシア経済連合、上海協力機構などの国際機関の活動にも積極的に参加している。

この点において、トカエフ氏の知識、経験、感覚、個人の才能は非常に重要な役割を果たした。今年、アスタナ市では上海協力機構とユーラシア経済連合の首脳会議を成功裏に開催した。現在、トカエフ氏は国際的に認知された政治家となっている。トカエフ氏が上院議長を務めていた際、カザフスタンが2018年に国連安全保障理事会の非常任理事国に選ばれたことは、トカエフ氏の外交活動の重要な成果である。