デムベレル 教授: 私は人生をかけて辞典作りに取り組んできました

特集
bolormaa@montsame.gov.mn
2022-05-17 16:39:43

先月20日、サンジーン・デムベレル言語博士の『新モンゴル語・日本語辞典』が発刊された。“辞書のデムベレルさん”と呼ばれるほどデムベレル先生の功績やモンゴルにおける日本語教育への貢献は大きい。『新モンゴル語・日本語辞典』はデムベレル先生の11回目の辞典となる。デムベレル先生は「30年近く、10回以上辞書を作成し、編集した。この作業は、単行本とは違う大変特殊な世界です。辞書は今を生きる人に向けて作られるべきだと思っております。今も別の辞典の作成に取り組んでいます」と今後の目標を熱心に語ってくれた。今回は多忙なデムベレル先生との貴重な談話をお届けする。

 

――モンゴル日本外交関係樹立50周年の記念として、『新モンゴル語・日本語辞典』を発刊されたこと、おめでとうございます。辞典の特徴からお話しください。

この辞典は、モンゴルで広く使われている社会、政治、経済、歴史、医学、植物相、動物相、宗教など6万以上の言葉とフレーズを含めています。辞典の特徴としてはまず第一に、2018年に大統領府所属国語政策顧問会が発行した『モンゴル語スペル文法辞典』に従い、文法、スペル規則及び品詞別に峻別しようとしたことです。次に、モンゴル縦文字を尊重し、2025年から国家公務に現在のキリル文字と同様にモンゴル縦文字の同時使用を義務付ける政策を支援し、モンゴル縦文字でサブを付けました。これには私が約50年前に大学で専攻したモンゴル語教師という肩書きも影響したと思います。第三に、漢字を読みやすくするため、発音をキリル文字で音訳しました。この辞典を全体的に完成させるには多くの辞典も参考にし、それらの辞典に記載されていない単語をいくつかを含めようとしました。一例を挙げると、「Хөеө(フヨー)」という言葉の比喩的な意味は「蓄財」であり、「Хүндрүүлэх(フンドルーレフ)」という言葉には「袖の下を渡す:гар хүндрүүлэх(ガル・フンドルーレフ)」などの意味もあります。モンゴルの慣用句やことわざを日本の慣用句やことわざに比喩して入れました。例えば、「Би явж байна Бээжин сууж байна と言うモンゴルの慣用句の直訳は「私は歩いている、北京は座っている」であるが、日本の慣用句にすれば「千里の道も一歩から」と訳すことで本来の意味を表すことが出来る。さらに、以前用いられたが、今の若者には用いられなくなった言葉、いわゆる「死語」をもなるべく入れるようにしました。例えば、Аариг(アーリグ)は溝、起伏の多い凸凹の土地。又はこぶ、木こぶなどの意味があります。

――日本語を学んだモンゴルの人々で先生の辞典を手に取っていない人はほぼいないと思います。先生は“辞書のデムベレルさん”とも呼ばれていますね...。

日本語を勉強している学生や日本で大学卒業した何人かの若者から「あなたの辞書のおかげで、ここまで来ました。感謝します」などのお褒めの言葉をもらったことがあります。日本研究者と日本語教師らから冗談半分で「辞書のデムベレル」とあだ名を付けられ、そう呼ばれることがあります。モンゴルの有名な作家、言語学研究者のツェンド・ダミディンスレンは1966年に新聞記事で「『ロシア・モンゴル語辞典』を作成する際にПерец(ペレツ:コショウ香辛料)をモンゴル語に訳すために3日間を用した」と書いてありましたが、私の人生そのものだと思っていました。

日本では直木賞作家三浦しをんさんのベストセラー小説『舟を編む』が有名ですね。「誰かとつながりたくて、広大な海を渡ろうとする人たちに捧げる辞書」との名セリフもありますが、言葉の意味は一つではないことを理解し、言葉と真剣に向き合い、心を豊かにする作品だと思います。


――辞典は発行するまでは、数え知れない程の時間と知的作業が必要だと思います。辞典を作成するようになった理由を教えてくれませんか。

私は1977年から1981年まで日本で勉強していたモンゴル人留学生の一人です。私が日本語を学んでいた時は、D.アルマーズ氏の手書きの『モンゴルー日本会話辞書』という数冊しか発行されていない本だけが日本語教本でした。1990年代まではモンゴルでは日本語教本だけでなく、辞書すらなかったのです。私は、仕事の傍らほぼ4年間取り組み1995年に『和蒙漢字辞典』を発行しました。編集者の新井伸一先生は「辞書を作るのは大変な作業で、かなりの忍耐が必要です。私も、このような辞書を作りたいと思い同僚の学者と一緒にこの数年間作業を続けていますが、まだ終わっていません。このような素晴らしい仕事をし終わった事を誇りに思います」と励ましてくれました。先生のこの言葉が私の原動力となり、この辞書をさらに良くしたいという信念と情熱が湧いてきました。2009年に『和蒙漢字辞典』を編集し、単語数を追加した和蒙学習辞典を、そして2020年再度編集し、『現代日本語実用漢字辞典』を出版しました。そして、漢字辞典と合わせて2007年に『和モ辞典』を、さらに改善し2010年に再出版しました。単語を追加し、2012年に2巻『和蒙大辞典』を出版しました。この辞典を日本のSiba Service社がIpad及びAndroid対応の電子辞書にしました。その後は長年携わってきた仕事なので、そのまま最後だと置いておかず、2018年に近年日本で広く使われている最新語を合わせ『新・和モ大辞典』を出版しました。今でも辞書は今を生きる人々に向けて作られるべきだと思っています。

一方、90年代初期に医療分野で通訳してきた経験と当時のメモ帳を活かし『モンゴル語・日本語医学用語辞典』、『日本語・モンゴル語医学用語辞典』を20122013年に出版しました。辞典を編集し、再調整するには少なくとも10回までの再修正作業が必要で、計り知れない程の時間もかかります。同じことを何回も読むのは能力だけじゃなく体力も必要となり、面白い仕事でありません。その一方で、辞典とは芸術と同じく規律、ルールと基準を求め、まるで生き物で、常に変化する面白いものでもあります。


――最近、日本語を専門に、またはプロの翻訳・通訳として日本語を学ぶ人が少なくなったと思いますが、これについて先生のお考えは?

そうですね。現在は英語を学ぶ波が浮上しています。これはモンゴルだけでなく、他の外国でも同じです。モンゴル語と日本語は言語類型的に同じく「アルタイ諸語」であるため、文法や会話は学習しやすいと思います。しかし、漢字の書き順・読み方はモンゴル人にとって難しい点が沢山ありますので、専門レベルまで学習するには心が折れるという若者の意見を聞きました。また、我が国では日本語を活用する場が少ないので、学ぶ人は少なくなっていると思います。


――貴方は辞書作成だけでなく、在モンゴル日本国大使館とモンゴル・日本関係に重要な非政府機関などにも長年務めて来られました。現在のモンゴル・日本関係は過去に比べてどのように発展していますか。

私は、在モンゴル日本国大使館に16年間勤務し、定年退職しました。定年後は10年以上、日本語教師として務めました。その間、26年間はモンゴルと日本の人々の友情、相互理解、信頼を強化するために歴史、文化、文明、開発を学び、促進することを目的とする2つの非営利団体の会長として務めています。ひとつはモンゴル日本関係促進協会「トゥンシーン・ホルボー」であり、もうひとつは「モンゴル・トヨオカのシルクロード協会」です。過去2年間はコロナウイルス感染症拡大の影響で活動が出来ていません。今年はモンゴル日本の外交関係樹立50周年を記念し、モンゴル日本関係促進協会「トゥンシーン・ホルボー」は二国間関係に関するテレビのドキュメンタリー番組や新聞記事を掲載しました。また、モンゴルと日本の関係において重要な役割を果たしてきた47人のモンゴル人と8人の日本人の回想録を含む『アルタン・アルガムジ』記念本を今年2月に発行しました。今年の8月に、外務省、在モンゴル日本国大使館及びモンゴル・日本の友好団体と協力し、外交関係樹立50周年シンポジウム「Khuraldai-III」を開催する予定です。


――今後、モ日関係をより促進するために、より重要となる分野は何だと思いますか。

今後は政府同士の関係だけでなく、市民外交一形態である友好組織をより強化することで、両国の関係はより促進するでしょう。そして、両国政府と国民関係をより強化することを目指す必要があると思います。今後は特に文化・貿易・経済関係の充実化を図ることが重要になると思います。


――日本語やモ日関係に長年携わり、共有したい思い出が沢山あると思います。今後の目標を含めて是非読者にも教えて下さい。

私が事務総長を務めるモ・日関係促進協会「トゥンシーン・ホルボー」は、今年は創立28周年を迎えました。両国関係の歴史においては長い道でありませんが、ある程度の成果を上げていると考えております。『Blue Sky-Rising Sun』、『運命に従って』などのドキュメンタリー映画、『モンゴル日本外交関係:過去と現在』などの書籍も出版しました。今後は二国間関係に関する講演会をも開催する予定です。そして、わたくし自身としては、モンゴルの日本人教師会から『類語辞書』の作成依頼が来ています。日本語から本を翻訳し、辞書を再編集し、回想録の執筆などのやりたいことが沢山あります。でも私も御年77歳ですので、人の命には限りがありますが、後世代に知恵を残したいという私の心は無限です。

――ありがとうございました。