ボル・ポンサルドラム氏:1911年の国家独立と自由回復を 求めた革命は、モンゴル独立の根本的な始まりである

特集
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2023-12-29 17:43:24

1229日の「国家独立と自由回復記念日」に際し、モンゴル科学アカデミー・歴史民族学研究所・近史分野上級研究者であるボル・ポンサルドラム博士に話を聞いた


――19111229日、国家独立と自由回復を求めた革命の結果、モンゴルの独立が宣言されました。当時、このような出来事が起こる前提条件は何でしたか


あらゆる革命は前提条件が満たされたときに起こる。当時は、モンゴルも中国も満州統治下にあった。19世紀半ば以降、満州政権は(麻薬戦争で)先進国に劣り、その影響力貧弱化により領土を失った。そこで、満州は政権放棄せずに自国強化に向け、20世紀初頭から政治、経済、文化分野で「新政府」と呼ばれる政策を実施した中でも、モンゴルで最も物議を醸したのは経済改革であった。その理由は、経済改革の一環で中国人のモンゴルへの大量定住であった。モンゴルの土地に定住する多数の中国人は、何千年も遊牧民として暮らしてきたモンゴル人の基本的利益を大きく損害するものであった。モンゴル社会の上層部も下層部もすべてこれを意識的に理解し、反対し、民族解放のため戦った。また、満州支配下にあった中国やチベットなど各地でも民族解放運動が起こる一方、先進国の間もその勢力圏内における領土所有と共有を巡り争っていた例えば、ロシア帝国は19041905年の日ロ戦争で敗北し、1907年、1910年、1912年の日ロ両国間条約により、その勢力範囲内で、モンゴルを分割した。1899年以来、米国は中国に対し「 門戸開放」と「機会均等」政策を実施し、それはモンゴルにも適用されると同時に、ロシアの極東における政策活動が活 発 し た 。 言 い 換 え れば、1911年は自由への革命運動の内外条件が 整えられたのである


――私たちは今になって漸く、1911年の出来事を革命として話していますが、以前は国民運動レベルで扱われていたのですが、その理由を教えてください


1911年、イフ・フレー(都の意)で起こったプロセスは運動ではなく、確実に自由回復を求めた革命であった。運動について考えてみれば、今も社会ではさまざまな運動があり、目標を達成する運動もあれば、そうでない運動もある。もし、1911年の過程を運動として捉えれば、その結果としてのモンゴル国家独立を正確かつ客観的に反映・評価することはできず、外部研究を通じてのみ自らの歴史を評価することになるモンゴルの歴史研究は、マルクス主義歴史学において、そのような評価と結論が与えられていた時代はあった。しかし、1968年の出版された『中華人民共和国の歴史』3巻でマルクス主義歴史学観点における結論を再検討し、現実的に評価する必要があると指摘された。1990年以降、このテーマに関する本格的な研究が発展し、数十冊の本が出版された


――1911年の国家独立革命について研究者の意見とは・・


この歴史についての研究は、20世紀初頭に始まり、当時も、同過程を「革命」、「大運動」「太陽運動」などと呼んでいた。モンゴルの歴史研究の発展の道のりでは、それは「自由回復運動」(マルクス主義歴史学において)、「民族革命」および「民族自由革命」(歴史改革期において)などと呼ばれてきた。1911年の革命の目標は、国家根源の保存、宗教の救済、モンゴル族の団結であった。うち、モンゴル族の団結目標は、国際力の力加減により達成されなかった国家独立革命の段階は、目標達成の過程に関連し、大きく二つに分けられる。まず第1に、19111913年。国家独立と自由回復のための革命が勝利し、モンゴル人が独立を目指し戦った時代。この時点で、バルガ、内モンゴル、アラシャ、フフノール、イル・タルバガタイのモンゴル族がモンゴルに加わる意向を表明していた。このうに、モンゴル民族解放革命は内モンゴルの範囲を超え、内モンゴルやボリアドなどモンゴル族に及び、大国の利益に触れたため、1913年、ロシア帝国と中民国家は北京での会談で合意に達し、外モンゴルを自治国家とする宣言を出した。これにより、モンゴル族の団結という目標は中断された。次の2番目が19141915年。国家独立革命の衰退期と呼ばれるこの時期は、1915年にヒアグタで三国条約が締結されるまで続いたロシア帝国と中国民国家は共に侵攻し、ヒアグタ条約に基づいてモンゴルを「自治」とし、その独立の価値を低下させた


――国家独立革命の指導者ら、組織について教えてください


国 家 独 立 革 命 と 命 名 ・評 価 す る 主 な 基 準 の 1 つが、革命を主導する政治勢力、組織、方向性、計画目標の明確さである。一般に、1911年のモンゴルの自由回復革命の歴史を革命ではなく運動として解釈する外国研究者(E.A.ベロフなど)が訴える基準は、モンゴルには革命を指導する政治勢力が存在しなかったというものであるまた、国内知識人の中にも、活仏ジャブザンダムバ8世のボグド・ハーン即位はロシア帝国が許可したからに過ぎないと歴史を歪曲する人もいる。しかし、歴史的記録は、モンゴル人が外界内界で何が起こっているかをよく知り、いつ行動し、どのように組織するかを正確に分かっていたことを示す。三国条約締結の当時、モンゴル人は(1915年の不均衡な戦いで)ロシア帝国と中民国家の経験豊富な外交官らと独立に向け9ヶ月間に及ぶ交渉戦の末、少しではあるが成果は得られた。モンゴル人の知識、技術、努力、常識など多くの素質がここで伺われるもし、そのような情報や知識を持っていなかったら、革命の条件と機会を永遠に失っていたと言える。民族の自由回復革命の結果、1911年に設立されたモンゴル国家独立は、単にロシア帝国の承認だけでは説明されない。モンゴル人の努力、知性、誠実な願望、忍耐、創意工夫がここに反映され、それらは詳細に評価されるべきである

この革命を主導した政治勢力は臨時政府であったと考えられる。1911年の秋、チャグダルジャブ将軍でトゥシェート・ハン県知事が率いる「臨時政府」をハンダドルジ・チン・ワン、イフ・フレー都のツェレンチメド・ダー・ラマ、ゴンボスレン将軍でセツェン・ハン県知事、同県ヘベイ・ベイス・ゴンボスレン将軍、ツェデンソノム・サインノヨン・ハン県知事、トゥシェート・ハン県補佐のナムスライ伯の構成により設立した。この織が実施した多くの取り組みを、次の様に要約できる

 国家独立のための戦いの成果を強化・保護し、自由を完全に回復
 満州政権時代の国家制度、代表組織、役職および職責の廃止および変更
 国内生活の規制と管理
 モンゴルの多くの県や部族の国家革命への参入
 国家独立の準備に向け軍隊と資金を集める
 新しいモンゴル国家の常設政府構築の準備と組織を計画。これには、ボグド・ハーン即位の盛大な式典開催の準備、式典参加者らの服装と順序・規則の決定、国王印章の原型開発、印章の作成、国章と国旗の作成、政府設立が含まれる

5つの省とその大臣の名前を挙げると

内政全般を担当する内務省、ツェレンチメド・ダー・ラマ内務大臣
外交関係を担当する外務省、ホショイ・チン・ワン・マンライバートル・ハンダドルジ外務大臣
財政、基金を担当する大蔵省、トゥシェート・ハン県知事のチャグダルジャブ大蔵大臣
軍隊関係を担当するゴンボスレン・エルデネ・ダライ・ワン防衛大臣
懲罰、司法事件を担当する法務省、ナムスライ伯法務大

その後、1912年に総行政省が設立され、ナムナンスレン閣下が大臣に任命されたが、同省は1915年に解散され、内務省に移管された


― ― 活 仏 ジ ャ ブ ザ ン ダ ン バ 8世(アグワーン・ロブサン・チョイジンニャム・ダンザンワーンチグ・バルサンボー)のボグド・ハーン即位は非常に興味深い歴史です。大モンゴル帝国を建国したチンギス・ハーンの黄金貴族の子孫と言われるダシニャム・トゥシェート・ハンと貴族らの立場はどんなものであったのでしょうか


モンゴル歴史家と研究者は、独立したモンゴル王位にチンギス・ハーンの黄金貴族の後継がまだいるにもかかわらず、活仏ジャブザンダンバ8世をボグド・ハーン即位について一致した見解である

第一、活仏ジャブザンダンバ8世は最初から自由回復革命を指導し、管理した。
第二、モンゴル仏教の指導者であり、モンゴル族の知的・精神的指導者であった。
第三、活仏ジャブザンダンバ8世は、高聖ザナバザルの跡継ぎとされ、チンギス・ハーンの子孫とも認められていた。
第四、活仏ジャブザンダンバ8世は、ハルハ族の中で最も富裕族であった等で説明される

私も上記説明を支持するが、中でも最も重要なのはモンゴル人の知的・精神的指導者であったことを強調したい。だからこそ、チンギス・ハーン遺族はそれを受け入れ、王位を巡る争いを避け、王座よりモンゴル国家独立と自由回復が最も重要である立場をとっていたことが歴史的経緯から見て取れる


――国家独立と自由回復革命の指導者らが直面した課題、障害を乗り越えるために最初にどのような措置を講じましたか?


イフ・ファ(フランス)、イン( イギリス)、デ(ドイツ)、メイ(アメリカ)、ビリッシュ(ベルギー)、ジビン(日本)、ダン・マー(デンマーク)、ヘ・ダン(オランダ)、アウ (オーストリア)の9ヶ国の外務省に公文書を送っている。しかし、何の反応もなく、その後、ロシア帝国と1912年に友好条約を締結した。さらに、国の経済発展促進に向けた特定の措置が講じられている。具体的には、関税、税金、金融システム構築をはじめ、近代的な教室型学校の設立に取り組んだ。外務省管轄下で生 徒数 4 0 人 の 最 初 の 学 校 設 が、後に全国的に多くの小学校を設立することに繋がった。アーカイブによると、子供や若者育成に向け4060の学校設立だけでなく、ロシア帝国への留学も始めた。こうして、モンゴルの教育制度が1912年に正式に始まり、今年はモンゴルで近代教育制度が確立された111年目にあたる


――ヒアグト三国条約にモンゴルから誰が代表参加しましたか


191210月、イフ・フレーにおいてモンゴル政府とロシア帝国政府間で、友好条約が締結されたことを受け、中国はロシア帝 国 に 対 し 、 単 独 で モ ン ゴ ル独 立 を 認 め た こ と に な る と 訴え、191311月に中ロ両国は北京で、モンゴルについて非公開会談による合意で発出した「外モンゴルに中国自治権を保障する」開示書を、モンゴル政府に強制的に引き渡そうとした
これにはモンゴル政府が反対し、ヒアグトで三国の全代表の参加の下で話し合いをはじめ、同交渉は9ヶ月に及んだ。同条約交渉に、内務大臣、大蔵大臣、外務副大臣、国務大臣、伯爵、事務担当者らと、ツェヴェーン・ジャムスランノブ、ツォグト・バダムジャブ作家兼翻訳官、サンジミャタブ作家筆記者が参加した。ロシア帝国全権公使としてミラー総領事らの7人、中国全権公使として碧桂凡将軍、陳陸大使らの7人が参加した三国条約に参加したモンゴル人は、国家利益のため懸命に戦い、交渉中、モンゴル側は締結当事国の要請に応じ、マンライバータル・ダムディンスレン氏とダシジャブ・ダー・ラマの解任と、代わりにシルネンダムディン氏を任命した。三国はモンゴルの宗主権に同意した。同条約は、自らの利益に影響を与えることなくモンゴルを自分たちの利益下に導くロシア帝国と中国政府の政策の反映でもある。三国条約の締結後、モンゴルの社会生活は以前と変わらず続いた


――1912年のロシア帝国とモンゴル間の友好条約に参加したツェレンチメド・ダー・ラマは、ロシア外交官を激怒させたと言われる。ロシア外交官自身はダー・ラマや革命指導者らをどのように評価していたのだろうか


同件に関し、ロシア外交官のコロストベツ氏は著書の中で記している。同著書はモンゴル語に翻訳され、2010年に『モンゴルで過ごした9ヶ月』というタイトルで出版された。1912年の条約交渉に参加したツェレンチド・ダー・ラマを含むモンゴル人は、モンゴルの権利、地位、独立のために断固として戦い、一方で、高いレベルの国際法規範と法律知識により、ロシア帝国の聡明で経験豊富な外交官もお手上げであったことが伺われる。ここで注意すべきことの一つは、1911年の革命指導者らが親ロシア、親中、あるいは親日派であると当時上層部に報告されていたこともあり、歴史の記録に残されている自由回復の一心で、革命指導者らはどの国の側にも立たず、モンゴルの利益と独立を守るため、あらゆる方法と協力を探っていた。コロストベツ氏は著書の中で、ツェレンチメド・ダー・ラマの精力的で知的、冷静で無私的、尊敬さ れ る 存 在 で あ っ た と し 、 一方、ハンダドルジ・チン・ワンは私たち(ロシア)に近づく見方を堅持していた等、当時の指導者らについて書き記している


――1911年の自由回復の革命は、20世紀のモンゴル歴史の中でどのような位置を占めるのでしょうか


20世紀のモンゴル歴史は非常にダイナミックで活発、世紀初頭からモンゴル人が国家独立を宣言し、世界に証明し、真の成功を収めた年代であった。同世紀、モンゴル国民は三度の革命(1911年、1921年、1990年)を起こし、モンゴル国家を世界に宣言し、国連に加盟し、農業、工業、現代科学と教育を発展させ、国内で人材育成を確立できた世紀であった

これら多くの成果の始まりと最初の基礎は、1911年の国家独立と自由回復革命により築かれ、後の革命や国の発展の土台となった。今日、歴史の過程が互いに平行し、上下に置かれ、運動であるか、革命であるかが議論され、一部著名人の浅はかなな内容の記事がオンライン上で投稿され、広められていることは非常に残念である過去の歴史過程を互いに切り離すのではなく、モンゴルの国益、国家独立の継続性の観点から、外部および内部状況を総合的に評価するのは、永遠の原則である。この原 則 を 次 世 代 の 若 者 に 理 解 してもらうことが非常に重要である。最後に特注したいのは、自由回復革命の継続は1921年の人民革命に続き、これら革命に参加した全てのモンゴル人は外国の援助を受けていたながらも、誰かの側にも立たず、モンゴル国家の独立、遺産継承に懸命に務めたのである