中世の世界首都であるカラコルム建都800周年
特集
今年モンゴル帝国の古都であるカラコルム建都800周年である。カラコルム市はオゴデイ・ハーン、ムンフ・ハーンの治世中に、中央アジアにおける最大の帝国であるモンゴル帝国の首都として繁栄してきた。その後、トゴーントゥムル・ハーンの息子ビレグトハーンの時、「北元」という名で復活した。これらについてモンゴル国立大学の人類学・考古学部の U.エルデネバト博士にインタビューした。
――現在、モンゴルの考古学研究分野は成功裡に発展しており、国際的に評価されている分野です。約20年前からカラコルムの研究プロジェクトを開始した。これについては?
過去70年間、カラコルム市において主に外国投資による発掘調査が行われてきました。しかし、発掘調査の結果をモンゴル語で国民に公開することは難しかったです。そのため、数年前からモンゴルの有名な考古学者D.バヤル教授が率いる研究チームがドイツ考古学遠征チームとの共同で研究を開始しました。カラコルム市だけではなく、オルホン渓谷の歴史的な場所を発見する研究に没頭しました。オルホン渓谷とカラコルム市はモンゴルに初めて考古学研究が行われた場所の一つで、わが国の考古学の研究と発展のはじめはカラコルム市の歴史と密接に関係します。
――エルデネバトさんが著作した本「モンゴルの古都カラコルム」第2版は今年の初めごろに発売されました。この本の内容について。この本にはカラコルム市創立の歴史、繁栄のピーク、衰退原因などの多面的な情報が含まれています。また、史料、考古学的出土品、珍しい発見などに関する情報が充実しています。
――今年のカラコルム建都800周年記念に当たり、どんなイベント及び活動が行われますか?
過去20年間、モンゴル・ドイツ調査チームは効果的に行動を行ってきました。我々は学者、研究者の調査結果を人々に伝えることにより注力しました。「モンゴルの古都カラコルム」はこの努力の一つだと思います。さらに、我々は地表面に現れている考古学的遺跡を保護し、人々に宣伝するために、オープン展示物とした。同市にあった仏教寺院の遺跡を発掘した際はこの寺院の建築材料を確定し、ここでオープン博物館を設立しました。
――過去20年間の発掘調査の著しい結果の1つがカラコルム博物館を設立したことですね。
そうです。日本の無償援助により、この博物館が設立されました。この博物館でオルホンの渓谷とカラコルム市遺跡で発見された貴重な出土品を展示し、多様な活動を行なう歴史と考古学のモンゴル初の博物館です。設立してから約10年となっている同博物館はモンゴルでけでなく、日本、ドイツの学者、研究者らが密接に協力しています。
――チンギス・ハーンはモンゴル帝国の首都をオルホンの渓谷に建てた理由は何でしょうか。これは大切な質問ですね。
オゴデイ・ハーンの命令により、建てられたと言われますが、1220年にチンギス・ハーンは モンゴル帝国の首都をオルホンの渓谷に建設すると既に決めていたことがいくつもの史料でわかります。中央アジアの初の国家であるフンヌ(匈奴)帝国のロート市で在位していたという史料があります。また、ウイグル可汗国のオルド・バリク都城(現在ハル・バルガスン遺跡と呼ばれる)、東突厥帝国のビルゲハーン碑文、キュルテギン碑文の関連発掘物が発見されました。そのため、この渓谷はモンゴル草原に次々と存在していた遊牧民国家ハーンの宮殿が建てられてきた伝統的な場所とみなされます。それによると13世紀の帝国の首都であるカラコルム建設は古代遊牧民の思想伝統に従ったということです。
――カラコルムの歴史に果たした最も重要な役割りは何ですか?
オゴデイ・ハーン(1229年~1241年)とムンフ・ハーン(1251年~1259年)の時、カラコルムは最盛期に達しました。しかし、1260年にアリグブケとフビライの間でモンゴル帝国帝位継承戦争(1260年~1264年)が起こり、最終的にフビライが勝利を収めました。フビライ・ハーンは1271年に国名を「元」とし、首都を現在の北京であるエンキョウ:燕京に遷して以来、カラコルムは以前のように繁栄することは出来なかったのです。これによるとカラコルムはモンゴル帝国の思想、統一、独立の象徴となる都でした。
――カラコルムには多くの異教寺院があったことから見れば、この統一性、グロバル化がわかると思います。
中世に、特にヨーロッパ人の間で宗教対立が多かったことに対してカラコルムでは反対でした。これについてフランスの修道士ウィリアム・ルブルックが「いろいろ異なった民族に属する異教の寺院12、モスク2つ、教会1つがあった」と記録した。この記録によればチンギス・ハーンと その後継者たちは、宗教に対して寛容な政策をとり、信仰の自由と平等を保障していたことがわかります。ムンフ・ハーンの時、カラコルムにおいてキリスト教徒、イスラム教徒と仏教徒による弁論大会も開かれていたことが史料に書かれています。
――ムンフ・ハーンはどんな原則に基いて宗教弁論大会を行ったでしょうか?
ルブルックの記録によると大会は「誰も相手と口論したり、相手を侮辱したりしてはならぬ。また、誰もこの弁論を妨げる騒ぎをおこしてはならぬ。これらにそむけば死刑である」というムンフ・ハーンの厳しい命令の下で行われました。このような平和な環境の中、平等な立場で弁論できたことは有史以来、はじめての出来事だったでしょう。
――古代の歴史以外に、研究者の最も興味を引くところは何ですか?
中世の世界帝国の首都だったため、一定期間で世界の経済及び社会の中心となりました。また、イフ・ハーンの宮殿がカラコルムに位置し、外国への征服、役人の任命などの政治的主要な決定が出されました。一方、オゴデイ、ムンフ・ハーンの治世中にどんなに豊富で繁盛した首都だったかは数多くの旅行者、学者による史料で明らかになりました。これは当時のハーンたちの賢明な政策に加えて心の広さに関連します。オゴデイ・ハーンは盛大な宴会をしたり、外国商売人の商品と手作り物を高価格で購入したりする人でした。これに関するいくつかの証拠があります。
――カラコルムの構造的特徴については?
首都の風格を保持し、壁で囲まれた面積は1.8平方㎞にわたります。4つの側面に門と2つの大きいな大通りがあります。また、様々な民族の人々が住んでいたため、それぞれの寺院などが建設されました。ですから、建築家も多かったです。例えば:1235年にオゴデイ・ハーンは中国から1500人の有能な建築家を集め、ハーン宮殿建設を一任した歴史があります。カラコルム建築には焼成レンガ、生レンガ、木材、大谷石などが使用されました。
――季節による移動式宮殿もあったそうです。これについては?
モンゴル帝国のハーンたちはカラコルムの周辺に多くの小さい都市を建設しました。季節によりこれらの都市へ移動します。ハーンは首都にある宮殿で定住せず、戦争に行く以外にはカラコルム周辺の小さい宮殿を移住しながら、生活していました。
――様々な民族と多文化の影響でいろいろな食文化が普及したのではないかと思います。
そうです。カラコルム遺跡発掘で13世紀に栽培していた果物、植物の種を研究する別のチームがあります。モンゴルで栽培していた8万余りの植物の種を分類し、研究しました。フドウの種が多く見つけられました。栽培できる果
物、植物を母国で育て、残りはアジアの国々とヨーロッパから輸出していたとみなされます。
――カラコルム衰退の原因は何ですか?
以前言った通り、帝位継承戦争が1つの原因で、長年連続する戦争によりカラコルムの住民が遊牧生活に戻れなくなりました。しかし、衰退の主な原因は経済問題です。カラコルムの周辺に大規模な農業が行われ、主な食品及び植物の種子を中国から輸送していました。モンゴル帝国の中国支配が終了となって以降は、以前のように国民の食糧供給ができなくなりました。また、優れた職人による都市修復への取り組みも中止となりました。ハーンも職人も古代の伝統に従い、遊牧生活を送らなくなりました。
――現在までに、カラコルム遺跡発掘調査には何ヶ国の何人の学者、研究者ましたか?
1870年にO.パデリンロシアの学者がカラコルムの位置を確定し、公開しましたが、カラコルムの遺跡がちょうどどこにあったかは明らかにならなかったです。その後、1948年にモンゴル・ソ連の合同発掘チームが幅広い広場で発掘調査を行ない、以前確定した位置、現在のカラコルム遺跡はウブルハンガイ県のハラホルム郡にある、モンゴル帝国の古都カラコルムだったことが発見できまた。現在はロシア、ドイツ、日本などの研究者がそれぞれの調査を続けています。
――ありがとうございました。今後の活躍を期待しております。