バト・イレードゥイ氏:ドイツ・モンゴル研究所で働いた最初のモンゴル人は、D.ナツァグドルジ作家である

社会
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2024-02-01 16:35:59

(ウランバートル市、2024年2月1日、国営モンツァメ通信社)1月31日、近代モンゴル文学の創始者の一人であるD.ナツァグドルジが執筆したドイツ語・モンゴル語辞典が、ドイツのボン大学の図書館で発見された。約100年間、誰もが見たことのない同辞典を「発見」し、科学世界に流通させようと取り組んでいる、J.バトイレードゥイ科学アカデミー言語学研究所所長兼教授に話を聞いた。




――モンゴルとドイツの文化関係におけるもう一つの豊かな歴史の証人である偉大な作家が、20代前半の頃にドイツで執筆した辞典について、どのように考えていますか。その辞典を手に取った初めてのモンゴル人だと理解してもいいですか?

私は2015~17年までドイツのボン大学でモンゴル語・中部言語学部で客員教授として勤務していた。 当時、西ドイツには、W. ハイシッヒ・モンゴル研究センターを含む東洋部門を設立した著名な科学者がいた。彼は、モンゴルだけでなく、西洋諸国、世界中で出版された作品を集め大規模な図書館創設を目指していた。

私が務めていた学部は、ボン大学の中でも最も美しい建物の中にあった。大学の改築が行われ、充実した図書館を移転するために私たちは、全ての本を梱包している時、司書のカールが私にドイツ・モンゴル辞典の2冊の手書き原本を見せた。それは、1926~27年にD.ナツァグドルジ作家の執筆した辞典の唯一の、複写ではなく原本であった。




――偉大な作家は1926年にドイツへ行き、1929年に帰国した。なぜ、この長い間、発見しなかったのでしょう?

まず、その辞典がナツァグドルジ作家のものであるかどうかを確かめる必要がある。同作家の他の著作にあった筆跡と比較し、判断できた。同辞典は現在、ボン大学モンゴル・チベット学科の図書館に所蔵されているが、知っている範囲が狭く、言及されていなかった。

辞典の最初のページには、ナツァグドルジ作家が1800年代後半に、 I. Ya. シュミットによりペテルブルク市で出版されたモンゴル語-ロシア語-ドイツ語辞書の前書きに基づき執筆したのが非常に明確に書かれていた。 




――この辞典がボン大学の図書館に保管された理由は何だと思いますか?

これは未だに興味深いテーマである。ウォルター・ハイシグ・ボン大学図書館の創設者兼有名なモンゴル研究者がナツァグドルジ作家の教え子であるエーリッヒ・ヘニッシュと学術的に緊密な関係を持ち、親しかった。従い、その辞書をハイシッヒ氏に渡し、ボン大学後図書館に保管したのではないかと考えられる。


ーー単語数と、どのような辞典でしたか?

辞典は2冊あり、それぞれ150ページ、合計302ページからなる。最初版の表紙には、「E. Henisch、ライプツィヒ大学、東洋神学校または学科、A~K」と書かれていた。辞書の第1版の最初のページの文章を翻訳すると、「ライプツィヒ大学の東洋セミナーまたは学部、ヘニシュ教師の指導の下、D. ナツァグドルジが執筆、1927 年、ドイツ語のアルファベット順索引。単語と用語は約8900語で、シュミットのドイツ語 - モンゴル語辞書に基づいた」と書いてあった。


――1926年にドイツとフランスに研修のために派遣された若者たちは、多くのことを学び取得する任務を託された。 しかし、ナツァグドルジ作家は、なぜ辞書作成に積極的に取り組んだと思われますか?

私が研究した範囲では、D. ナツァグドルジ作家はドイツ語を非常によく学んだ。 だからこそ、E.ヘニッシュは辞書作成の任務を任せたかもしれない。 エーリッヒ・ヘニッシュの指導の下、ドイツにおけるモンゴル研究は非常に集中的に発展した。