林公使参事官:風と狼のような人に会いたいという強烈な思いで来ました

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2021-03-22 08:47:03

 林伸一郎在モンゴル日本国公使参事官が定年により帰国直前にインタビューをお願いした。彼は1980年以来モンゴルに5回任命されるほか、人生の25年をモンゴル国、モンゴル人と近く過ごした外交官である。「このところ、二週間以上続けて毎晩送別会をしてもらっています。モンゴル人の優しい言葉で毎晩泣いています」と心の内を明かしくれたことで、話がどんどん弾んでいった。「自慢話をして申し訳がないが」としながら、会った全ての人がモンゴルに長くいたことだけでなく「お前がモンゴル人を一番よく知っている。だから、林さんは何を言っても怒らず拒否もしない、お前の仕事には心がある」と言われ、「これが外務省で働いた30年間の一番うれしい勲章でした。私が大好きなモンゴル人が私を大切にしてくれたことで、悔いもなく、今は幸せです。この場を借りて、長い間、知り合った多くのモンゴル人の一人一人に感謝したい」と心からの言葉を伝えてくれた。

 ―モンゴル語がご堪能だと聞きました。モンゴル語、またはモンゴル国に興味を持った縁について語ってくださいませんか。

 私は高校を卒業して早稲田大学で東洋史を勉強しました。その時に中国の北に住んでいる人々に興味を持ちました。中国の複雑な歴史の中で北の人たちがまるで風のように中国に出たり入ったりしていると感じました。それで、どうしても自分の目でモンゴルの人々を見たいと希望するようになりました。また、『元朝秘史』をもとに書かれた井上靖の『蒼き狼』という小説があります。そのなかでモンゴル族が大人になれば狼になるという話が出てきました。

 “風”のような人たち、“狼”のような人たちに必ず会いたいと強く希望するようになりましたが、当時モンゴルは社会主義国でしたので、自由に旅行することができませんでした。そこで大学の教授に相談したら、東京外国語大学のモンゴル語科に入りモンゴルに留学すればいいと話してくれました。2年間勉強した早稲田大学をやめ、1978年に東京外国語大学モンゴル語科に入学しました。ところが、野球ばかりしてまじめに勉強せず2年間が過ぎました。ある日、野球の練習の後、たまたまモンゴル語の教授に会ったところ、教授に「今、在モンゴル日本大使館で派遣員を募集しているので、応募しろ」と言われました。あ、留学しなくてもモンゴルに行けるんだ、と喜んで応募し、採用してもらいました。

 1980年4月、北京から汽車に乗って初めてウランバートルに着くことができました。これが私のモンゴルとの出会いの始まりです。

 ――初めて足を運んだ時は春の涼しい季節でしたね。それ以降はモンゴルへ何回任命されましたか。

 そうですね、涼しくて風が強かったことを思い出します。当時はとても若く22歳でした。とにかくモンゴルに来たと、本当に嬉しかったです。私は1980年~1983年に派遣員に任命されてから、1990年に日本の外務省で外交官として入省し、1990年~1994、2002年~2005年、2011年~2015 年、2018年~2021年に日本大使館に、モンゴルへ5回の任命で 計15年間勤めました。

 ――モンゴルの社会変化をどんな印象で見てこられましたか。

 最初の社会主義時代の一番の思い出を語りましょう。当時、モンゴルの人々と帝国主義者の日本人が自由に話すことはできませんでした。その時の私の主な仕事の一つはウランバートル北京間の汽車の切符を月に二回買うことでした。ウランバートルホテルの南側に列車の小さな切符売り場がありました。そこには常に3人~4人の女性が座っていました。もちろん、その時、サービスというのは今のように笑顔でお客さんを迎え親切に切符を売るという雰囲気がまったくありませんでした。特に私は日本人だし、モンゴル語がよくできない者でしたので、非常に冷たく扱われていました。泣いて逃げ出そうという時が何度もありました( 笑)。どうしても大使館員を北京へ二回運ぶ必要があるので、朝から晩まで座って待っていました。特にモスクワからの列車の何号車の席が空いているかという連絡が入らない限り切符を売らないというので、その連絡が入るまで待っていました。当時は電話もメールもなく、テレックスで連絡を取り合っていました。外は寒くなり、待合室も冷えるので、彼女たちは「部屋の 中で待って」とニコリともしないが同情してくれるようになりました。とても怖い顔で温かいお茶やおいしいクッキ ーをくれました。時にはその一人から「私がトイレ行ってくるので、お前はここに座って切符を売ってろ」と言われたことも。また実際に切符を売ったこともありました。2年ぐらい経った時、ある女性職員が今度の休みにうちへ遊びに来いと言ってくれました。当時日本人と話すこともできなかったので、(日本人を家に招くことは大きな罪を犯すころ)もちろん私はご迷惑をかけると思い、断りました。しかし、女性は「あなたは風のような人だから、ぜひ家に来い」と言ってくれました。罪を承知で私を呼んでくださるその心意気を見て、やはりこの人たちは狼なんだと思いました。そして、私は風のようだと憧れていたモンゴル人に自分を「風」のようだと呼ばれたことがとても光栄でした。私は蒼き狼になる人、風のような人にやはり会えたんだという、これが社会主義時代の一番の思い出です。二度目の民主化になってからの思い出は、結婚したばかりの妻とモンゴルに来たことです。当時住んだモンゴルのアパートは断水や停電で暖房もなく、窓の内側に厚い氷までできていました。そんな中で二人はろうそくの火で毛布をかぶり、電気が来るのを待っていたこと、または寝る前にお湯の蛇口を開けっ放しにし、水の音がすれば飛び起きて洗い物をしたり、お風呂に入ったりしたことが忘れられません。私たちだけが差別を受けているのではなく、ウランバートル中で停電し真っ暗になったその生活の中でも生き生きとモンゴルの民主化を進めようとしていた若いエネルギーが満ちあふれていたので、それほど苦痛ではありませんでした。


 ――22歳の若さでモンゴルを訪れましたね。モンゴルへの赴任時は奥さんとご一緒でたか。

 奥さんといつどのように知り合いましたか。当時、保険の女性セールスに対し「もし、私が死んで私の保険金を受け取ってくれる女の人を見つけてくれたらあなたの保険に入りましょう」 と冗談のつもり言いました。ところが、そのセールスレディが腕の立つ女性で本当に紹介してくれました。

 私たちは6月20日に出会って8月2日に入籍しました。その保険セールスの友達が妻でした。私は先にモンゴルに来て、彼女が後から1990年11月に来ました。当時は日本語の先生がほぼいなく、家が23番学校のそばでしたので、妻は日本語の教師を務めました。モンゴルの子はみんないい子ですので、彼女に懐いてくれ、自分なりのモンゴルの良さを知ったでしょう。妻は3回モンゴルで暮らし、今回は日本で残りました。

 ――お子さんはモンゴルで生活しましたか。

 うちは息子が二人います。長男はインターナショナル・スクールに通学の時は、ダラダラした子でした。ある日、学校の行事で一週間の乗馬旅行に参加しました。ところで馬の旅を終えて帰ってきたら、顔付きや目付きが変わりまったく別人に成り変わっていました。それにはいくつかの理由があったそうです。馬に乗ったこと、モンゴルの大自然に触れたということ、そして何より、馬の群れをガイドしてくれたモンゴル人遊牧民の若者のカッコ良さに憧れたというのです。それで、彼は夏休みに馬を飼育している遊牧民のところに行きたいと自ら言い出し、一か月ぐらいトゥブ県の遊牧民 の家に滞在しました。彼の夢は日本人にモンゴルのことを知ってもらいたいと、または自分が案内してもらったようにガイドになりたいと専門学校で2年間 観光学を学び、現在は旅行会社JTBに勤めています。当時は18歳でしたが、今は25歳です。おととし、彼はJTBの東京オリン ピックの準備室に入り、営業でモンゴルに来ていました。モン ゴルにいる間に男の生きる力と自立を身に付けたと思います。

 ――参事官ご自身は乗馬など、自由時間をどう楽しまれていましたか。

 トゥブ県セルゲレン郡にあるマイダル大仏の近く、乗馬を専門に行うキャンプ場があります。そこで自由時間に乗馬をしました。キャンプ場は騎手に対し5~9レベルのランクを付けており、私は全部クリアしましたよ。コロナで乗馬はできませんでしたが、私の帰国を聞いて21日にナライハまで馬を連れてくると言ってくれました。そこで十分満喫して帰るでしょう。

 ――モンゴルと縁を結んだ25年をまとめると、成し遂げていない仕事や間に合わなかったことなどありましたか。帰国後のご予定は?

 正直に申し上げるとこれをしたという手に取れるようなものはありません。例えば、学校を建てたとか、道路を作ったなど、何もありません。今回は定年退職し、外務省と大使館の仕事ができなくなるが、これをしたかったということはありません。仕事ではモンゴルのいろんなところへ行くことができました。ただ 21県のうち、西のバヤン・ウルギー、オブス、ホブド、ゴビアルタイの4県へ行ったことがありません。今回は行きたかったのですが、コロナ禍の影響で国内旅行ができませんでした。これはきっとモンゴルの神様が定年後またモンゴルに来いよと言ってくれているのではと、思っています。

 ――参事官はモンゴル首脳レベルの数多くの訪問に参加されたと思いますが・・・

 モンゴルが民主化に移行してからわが両国関係がどんど ん進化し、モンゴルの大統領や首相、各省大臣を日本にお招きすることができるようになりました。1998年、モンゴルのナツァグ・バガバンディ大統領が日本を訪問された際に、私は外務省でモンゴルを担当していました。バガバ ンディ大統領がモンゴル首脳として初めて日本の相撲を観戦されました。当時の外務大臣が夕食会を主催し、私は外務大臣の後ろに座って通訳をしました。その時、バガバンディ大統領が相撲観戦について「国技館に入った時、日本の観客が全員立ち上がり私に向けて拍手してくれた。その時、ちっぽけなモンゴルという国から来た自分に対して日 本人全員が温かく迎えてくれたことに感動した」とおっしゃいました。私はそれを聞いて涙が止まらなくなり、通訳ができませんでした。恥ずかしい話ですが、とても強烈に覚えています。少し自分の自慢話をしますが、日本の海部総理、小渕総理、小泉総理、阿部総理が3回、合わせて4人の総理が6回モンゴルを訪れています。この全ての訪問時にモンゴルを担当していたので、仕事をさせていただきました。また、皇太子殿下がご訪問の際にも私は東京にいたが、殿下のそばにいて仕事をさせていただく光栄を得ました。また、モンゴルの大統領、首相、各大臣が日本を訪問される時もそばにいることができました。この30年の間に日本とモンゴルの関係は要人往来が中心に発展していたが、その全ての現場に立ち会うことができ、実際に自分の目で見ることができたのは本当に良かったと思います。外務省に勤めてから30年、そのうちの15年を在モンゴル日本国大使館で、10年を外務省の中国・ モンゴル課で直接モンゴルを担当することができ、25年にわたって外交という舞台でいつもモンゴルのそばにいることができました。本当に幸せな人間だと思っております。

 ――モンゴルの外交政策にモンゴルの重要性を簡単に定義されると?モンゴルに長年滞在された外交官の答えに興味がありますが・・・

 私はまず最初にモンゴルが好きになってモンゴルに来たのですが、おっしゃる通り外交の仕事を通してモンゴルは日本にとってとても大切だということを働ければ働くほど深く知るようになりました。特にアジア地域の中でモンゴルほど日本を大切にしてくれている国はまずないのではと、もしくは最も大切にしている国の一つだということに間違いはありません。私はモンゴルについて話すたびに上海協力機構(SCO)のロゴを引用しています。このロゴを見ると、ぽっかり真ん中が空いているのはモンゴルです。つまりモンゴルがSCOに加盟していません。この地図にモンゴルが世界の中で独立し、北や南の大国に飲み込まれないで独立した一国として世界平和の安定に貢献しようとしている心意気が感じられてとても好きです。このような広いところにモンゴルだけがポツンとあるからこそ、日本はこの国が大切です。民主主義と自由という同じ価値観を共有している大切な国です。ですから、モンゴルがこの色であり続けてほしいと、日本は思っていてそのための協力は日本にとってもモンゴルにとっても良い結果を生むのではないかと思っています。中国とロシアとは仲良くしてはいけないよというつもりは全然ありません。つまり、モンゴルは常に均衡が取れた外交を大切にしています。ですから、このロゴの色のままで、そして第三隣国との関係、隣国の中国、ロシアとの関係といった均衡の取れた外交の道を歩むことがモンゴルの発展につながると思っています。そのために日本は協力してきました。


 ――半世紀の歴史を持つ両国間外交関係は1990年に戦略的パートナーシップ関係から経済的パートナーシップ関係へと新たな発展段階に入りました。過去の両国関係をどのように見ていますか。わが両国の関係に最も重要な基盤は何だと思いますか。

 まさにこの10年大きく変わったのは政治関係がとても高い水準に達してきたと思います。ただ、モンゴル国民の全員が感じているように経済関係が政治関係に追い付いていません。そのため、日本は経済関係の促進に向けてモンゴル国初となる、または唯一のEPA(経済連携協定)を締結しました。これからEPAを活用してモンゴルのものが多く日本へ入ってくるようにするのが、今後の両国関係にとって大きな課題になるでしょう。 小林大使が中心にモンゴルの事業者に対して日本人は何を買ってくれるのか、そのためにどうすればいいのかということを調査し、みんなで考えていこうという呼びかけをずっと続けています。現在、チャツァルガナ(沙棘)、カシミヤ、ヤックのシャルトス( ギ―)などが輸出されています。日本のギーの市場はネパールが圧倒的に占めていたそうですが、EPAによりモンゴルの製品がタックスフリーになったので、競争力をつけることを期待しています。

 ――このように両国関係がインフラ、教育、保健など多分野で発展しています。参事官にとっては今後どんな分野でさらな る発展を希望していますか。

 日本は1990年以降、モンゴルに対し経済及び社会開発無償資金協力を供与するなかで教育分野をより重視してきました。私はその方針を正しいとずっと誇りに思っています。生活を便利にするためのインフラ整備などももちろん重要だが、人材育成というのは古くなりませんよね。それをずっとやり続けていることは、モンゴル人がモンゴル国を発展させる原動力になると思います。将来も教育分野における両国関係を続けていく、または強化していくことはとても大切です。

 ――日本の先端技術、ノウハウを身に付けたいというモンゴルの若者が多くいますが、彼らへのメッセージをお願します

 モンゴルの若者だけではなく、モンゴル人自体が優秀な人たちだと思っています。優秀ではなければ、人口300万人の国がロシアと中国とを渡り合って100年も生き残れるわけがないですよね。人口が少ないということは、優秀な人々だけ がモンゴルの厳しい環境の中で体力に限らず知力も優秀だからこそ生き残った、つまりより優れているひとだけ生き残った国ではないのかと思っています。 自ら来て実際に見なければ、この事実が分からないでしょう。小さな国、経済が遅れている、政治が汚れているなど嘆いている若者がいるが、皆様の能力がとても高く、十分に世界水準に達していると思います。ですから、胸を張って、自信を持って、顔を上げて自分のやりたいことをやってほしいと、若者の皆様に言いたいです。

 ――冒頭で風のよう、または 狼のようなモンゴル人男性について読んだとおっしゃいました。モンゴルと20年ぐらい縁を結んでいた間、そのようなモンゴル人に出会ったことがありますか。

 私が一番尊敬しているモンゴル人はS.フレルバータル大使です。実は1980年に派遣員としてモンゴルで働いていた時フレルバータル大使が日本大使館に勤めていました。フレルバータル大使の事務室に私の机を置き、モンゴル語ができなかった私を指導してくれたのが、40年前でした。フレルバータル大使は2回在日本モンゴル国大使を務め、3回もモンゴル外務省のアジア局長をされました。その間私がずっと一緒に仕事をさせていただいており、外交官としても尊敬しています。大使はいろいろな問題の解決に当たり、直接モンゴルの外務大臣や首相、大統領にその場で電話し即断即決し、ぐいぐい日本とモンゴルの関係を引っ張 てくれた「大使のモデル」になるような外交官でした。ですから、「狼」のようなモンゴル人男性といえば、フレル バータル大使を思い起こします。

 ーーご帰国後、奥様と第ニの人生をどのように過ごされますか。

 妻は専業主婦でこれまで私を支えてくれました。これからは妻と一緒にすることを決めました。実は私の次男が障害を持っているので、妻と支え合いながら、この子が私たちがいなくなった後、自立していけるような環境を作ってあげようと考えています。

 ーーありがとうございました。