写真家のバトスフさん:最初、モンゴル人が宇宙飛行するのは秘密でした

特集
gombosuren0625@gmail.com
2021-03-16 14:01:01

 長い歴史を持つ弊社・国営モンツァメ通信社には、これまで、数多くの優秀な記者、写真家が務めており、モンゴルで起きた歴史的に貴重な取材をしてきた。その一人がS.バトスフ写真家である。今年迎える弊社創立100周年、モンゴル国民の英雄ジュグデルデミド・グルラグチャー宇宙士のモンゴル初飛行40週年の節目を祈念し、モンゴル人がはじめて宇宙飛行に参加した歴史的な出来事を最初に撮影したバトスフさんにインタビューした。彼は40年間わが社に勤務して、2012年に定年退職した。

 ――当時、国営モンツァメ通信社、国家写真家局に数多くの写真家が務めていたと思います。その中でバトスフさんを宇宙飛行士の写真家として選んだ理由は何だったのでしょうか。

 若かったからか、国連教育文化機関などの主催による国内外のたくさんの写真コンテストに積極的に参加していました。当時、国家写真家局はモンツァメ の付属編集部として活躍していました。1976年のある日、B.ヒチェーングイ国家写真家局局長に呼ばれて、部屋に行ったら「モンゴル人が宇宙を飛行することになった」言いました。

 ――当時、これは秘密だったそうです。バトスフさんに突然言ったのですね。

 それが秘密であったとしても、この出来事の写真を撮る人には言っているでしょう。当時、これをなぜ私に言っているのかという疑問が頭に浮かんできました。もしかして、私を飛行させようとしているのではと思いました(笑)。

 ――写真撮影はいつから始まったのですか。

 当時、宇宙飛行する12人を訓練させていたため、一体誰が宇宙を飛行するかはわからなかったです。訓練を受けている各人の写真を撮り続けていました。1978年末頃、科学アカデミー副会長を務めていたB.チャドラー氏がモンゴル初の宇宙飛行について詳細を話してくれて、それから写真撮影も正式に始まったのです。科学アカダミーからの要請で、「ボロル」酒、「ニスレグ」お菓子の宣伝写真をよく取りました。これらはモンゴル人による宇宙飛行のために生産された製品でした。その後、写真撮影は1年間、停止しました。1979年のある日、宇宙授業に出席するように呼ばれました。そこでは「モンゴル映画」工場のオペレーターのZ.スフバートル氏、ダシドンドグ氏、監督にG.ゴンボ氏、D.ジ ャルガル氏などの5人が2週間、 レーニン博物館で宇宙授業に出席し、大気圧などを勉強し始めました。もともと、宇宙で働くチームを編成していたわけです。その後、1987年に党中央委員会のJ.トゥメンジャルガル氏が私と面談して「あなたは結構疲れているようです。写真撮影で一緒に働く人を探してください」と言いました。それである日、Ts.ニナさんが我がチームに入りました。我々は家族に田舎へ行くと言って、内緒でモスクワへ行きました。帰宅時にはプレゼントもなく、子どもたちが不思議に思っていたかもしれません(笑)。モスクワに到着してから、J.グルラグチャー氏やM.ガンゾリグ氏の写真を撮り始めました。その時にも、モンゴル人が宇宙を飛ぶかどうか、飛ぶとしても誰が飛行するか分からなかったです。


――モンゴル人が宇宙を飛行したこの貴重な瞬間を撮影した時の感想をお聞きしたいですね。

 その時、「ソユーズ39号」 宇宙船の宇宙基地から200㍍離 れた所に私が立って、写真を撮りました。この瞬間、モンゴル人が初めて地球から離れたという強い印象を受けまし た。光がまぶしく、とても素晴らしかったです。

 一方、地球帰還の時、私はヘリコプターで着陸場に到着して、カメラなどを設置していたら、「ソユーズ39号」宇宙船は予定時間に周回軌道を離脱しなかったと報道され、本当に心配しました。そしたら、何分も経たないうちに、周回軌道を成功裡に離れたと発表され、私たちは大喜びしました。

 当時、我々は防水ブーツと特別コートを着ました。なぜ、こんな服装を着たのかわからなかったです。後から考えてみれば、宇宙船の着陸場の特徴(都合)に合わせた服装でした。モンゴル人が広い宇宙を飛行して、無事帰還を果たしたことに涙が出るほど感動しました。いま思えば、涙があふれ過ぎて、あまりいい写真は撮れてなかったなあと述懐しています。

――貴重なお話を、ありがとうございました。